久保彦助家
橋立の最も有力な北前船主家の一つ、久保彦兵衛家の最初の分家で、屋号を「マエゴモチヤ」「九一」(クイチ)といいます。明治初期の最盛期には7隻の和船で北前船経営を展開し、橋立有数の船主家となりました。初代彦助は、久保本家の六兵衛の二男に生まれ、後に分家して久保彦助家を創設しました。彦助は、明和9(1772)年に病気で没していることから、分家した時期は宝暦年間(1751-1764)頃と考えられています。初代彦助の嫡男が2代目を継ぎ、3代目彦助は橋立の田野中家から養子に入り、文化11(1814)年に海難事故で死去しています。同家は、7代目まで北前船経営、海運業に従事しましたが、3代目と4代目彦助、6代目の3男は、海難事故で亡くなっており、北前船による航海が危険と隣り合わせであったことが伺えます。
5代目は、越前浜坂村の松下平左衛門の二男で、養子に迎えられました。妻は、橋立の北前船主で、後に北海道で北洋漁業を創業、国会議員にもなった平出喜三郎の娘です。久保彦助家の最盛期は4代目から5代目、6代目の前半頃までであったと考えられています。4代目は、大聖寺藩に金子千両を献上して慶応元年に屋敷地を拝領し、十村格を仰せ付けられています。8代目小太郎は、北海道小樽で海産商を営み、函館でも煙草や砂糖、塩、ストーブ等の販売事業を行っています。後に澱粉糊料を製造する富易化学工業(後にニチリン化学工業)を創業、兵庫県伊丹市を拠点としました。久保本家は大阪に移りましたが、9代目幸彦は、橋立で暮らしていました。
同家には、北前船経営をはじめ、各地の陶磁器類や蝦夷屏風等、久保家の歴史を伝える様々な資料が残されおり、一部は北前船の里資料館に寄託されています。
久保彦助家の北前船経営
久保彦助家は、明治時代以降もさらに北前船経営を発展させていきました。明治4(1871)年には、3艘の和船で1,948円余り、明治5年には4艘で1,801円の収益を得ていますが、明治10年には4艘で13,378円、明治11年には7艘で30,330円余りと、収益が急激に増加していることがわかります。
その後、汽船の発達などにより、地域間の価格差を利用して大きな利益を上げる北前船経営の収益は次第に減少していきますが、久保彦助家は、函館に店舗をかまえ、海産物の販売などを行いつつ、明治22年には5艘の和船を駆使して、北前船経営を展開していました。