木村素衛と妻・京子

京都での生活は、貧乏と闘うこと、病魔との闘いとなりましたが、決してそれだけではありませんでした。素衞とその弟有香は、京都に残る古い日本文化に魅せられることになります。二人は暇をみては、数多くある寺社を片っぱしから見てまわりました。「形」と「色」に対する生来の感受性、敏感さは京都においてこそ、有効に働いたようです。兄弟は京都の文化に心踊らせ、興奮しました。

京都一中には村山槐多(1896-1919)の存在がありました。大正2(1913)年、槐多は「信州の風景」を一中の絵画展に出しています。槐多が使う大胆なコバルト色に兄弟は強く惹き付けられています。二人は、明治41(1908)年から始まった文展を、毎年必ず、何回も見に行きました。大聖寺にいたら、橋立にいたら、こんな幸福は味わえなかったと、二人はしみじみ思うのでした。

三条の三角堂で槐多の木だけの大きなデッサン画を見つけた時は、素衞は大騒ぎしたと妻京子は昔を思い出しています。大変に気に入ったけれど、素衞にとってはなにしろ値が高い。いつも京子には大いばりの素衞が、それでもちゃんと大急ぎで京子の所に帰って来て買ってもいいかと聞いたといいます。そんなに欲しいものならと京子もお金を工面し、素衞は飛ぶようにして家を出て行きました。三角堂の主人は、木村君が買ってくれるのならと他の槐多のデッサン2枚をつけて売ってくれました。昭和8(1933)年、素衞が39歳のエピソードです。

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